パラオ5

こんにちは

連日綴っていたパラオ旅日記ですがいよいよ佳境です。

あと1回で終わりでしょうか。

前回の記事はこちら→

今回は、島めぐり。

みなさん、ペリリュー島という島をご存知でしょうか?

第二次世界大戦で激戦が繰り広げられた島です。

そちらにツアーで行ってきたのでその模様をお伝えしたいと思います。

まずは、その前に早起きして早朝ダイブ。

海に行って潜らないとダイビングの仕方を忘れてしまうので、1回は潜るようにしています。

大体1日がかりのスケジュールでツアーを組んでいるところが多いのですが、私が1日も時間を取れないため、早朝ダイブっていうのがある会社があったのでそちらに伺ってみました。

ホテルまで迎えに来てもらっていざ出発です。

もちろん、こんな朝早くから潜る変わり者はいないので、私だけの貸切状態になりました。

一緒に潜ってくれるバディと運転手さんがついてくれます。

沖へ沖へ向かいます

潜るのはなんだかんだ言って1年ぶり?

久しぶりのような気がします。

ポイント到着。

パラオの島の外側に行っていないので、めぼしい魚は全くいなかったです・・・・

残念。

でも、スキューバを忘れないっていう目的で行ったっちゃ行ったので、まあ、、、

よしとするのかな・・・

さささっと潜って、ホテルに送ってもらいました。

お次にまたツアー。

いよいよ、第二次世界大戦の激戦地、ペリリュー島を目指します。

第二次世界大戦といえば、激戦地としては、フィリピン、グアム、サイパンなどが有名ですが、ペリリュー島も占領のルートにあったため、ここでも悲惨な戦いが行われたようです。

日本軍戦死者は約1万名、米軍の戦死傷・行方不明者約8000名(戦死者約1800)という激戦でした。

米軍の上陸部隊である第一海兵師団のウィリアム・ルパータス少将は戦闘前、「three days maybe, two」と豪語していました。「こんなところは3日間くらいで落とせる。2日ですむかもしれん」と。実際には73日間の激戦となり、米軍最強の海兵隊といわれた第一海兵師団は日本軍に滅多うちにされて撤退し、隣のアンガウル島を攻めた陸軍第八一歩兵師団と交代するという屈辱を味わったのです。

到着。

今では自然が色濃いかんじでゆったりとしたときが流れています。

ですが、島に入ると当時の残骸がかなりたくさん残っていました。

日本兵はアメリカ兵が攻めてくる何か月も前からパラオ入りし、敵を迎え撃つ準備をします。

こちらは、中に入って真ん中の穴からアメリカ兵を撃つためにできた建物です。

こういうのがたくさんあります。

洞窟もありました。

中で武器を作ったり生活したりしていました。

なんと1000人もこの洞窟に入っていたそうです。

その他にも大小さまざまな洞窟が何百個もあるようで。

中は迷路のようになっていました

当時の天皇陛下は兵士のねぎらいということで、たくさんのビールを送ったようです。

そのビールの空き瓶がたくさん洞窟の中に転がっています。

何にもない壁にも真ん中に穴が開いてるのが分かりますか?

ここから攻撃していたようです。

戦没者慰霊碑です

最終的には生き残った人数は34人。

この生存者34人は終戦を知らないまま1947年4月21日に米軍に投降するまでゲリラ戦を続けていた。湿地帯で水が確保しやすい条件があり、時には米軍から食料を盗んだりしながら生き抜いていたそうで。

戦い的には、

日本軍

戦死者 10,695名
捕虜 202名

アメリカ軍
戦死者 1,794名
戦傷者 8,010名 ※この他に精神に異常をきたした者が数千名いた。

悲惨さが数字に出ています。

2か月強でこんなにも死傷者が出ているのですから・・・

戦争資料館

こちらは当時弾薬庫として利用していたようです。

当時の貴重な資料がたくさん残っていました。

海中から発見された爆弾や魚雷、機雷

海軍司令部跡

空から地上から攻撃を受けた跡が生々しく残っています

日本軍 95式軽戦車

体が小さいのか小さめの戦車です

オレンジビーチ

ここにアメリカ軍が攻め寄せましたが、日本軍の抵抗が凄まじく、一度は撤退したそうです。

日本軍 零式艦上戦闘機 ゼロ戦の愛称で有名です

なんだか今までビーチやらで楽しんでいたのですが、こんな悲しい過去があったなんて胸が苦しくなりました。

ランチはここでも

ベントー

ベントーを食べた近くに天皇陛下がいらっしゃったんで建物がありました。

ペリリュー平和記念公園です

こちらも、天皇陛下がペリリュー島に慰霊訪問されたときに、立ち寄られた場所です。前に見えるのが、日本政府が作った西太平洋戦没者の碑です。

ペリリュー島の日本兵士は水を飲むことができず亡くなった方が多かったので、亡くなった方が雨水を飲めるようにと、雨水を集めやすいカマボコ型になっているとのことでした。

こんな穏やかな海なのに、、、悲しいです

米軍の戦車

日本のと比べると大きさが全然違います。

大きい。

洞窟。

日本軍の大砲

この大砲はアメリカ軍の上陸したオレンジビーチ方向に向いていなかったため使われることはなかったそうです。

大山

日本軍の最後の抵抗となった場所です。

日本人が最後の最後まで逃げこんだ山です

中川州男(くにお)大佐率いるペリリュー島守備隊は、補給を絶たれた中での苦しい戦闘を続けておよそ2か月半、昭和19年11月24日午後、かねて打ち合わせてあった最後の電報「サクラ、サクラ、サクラ……」をパラオ地区集団司令部あてに発信した。その夜、中川地区隊長は従容として自決を遂げたという。

この先にその洞窟がありました。。。

深く深く手を合わせてきました。

パラオに来るまでまったく知らなかった事実・・・

胸が痛くなるような実話です。

戦争の跡をまざまざとみて大変勉強になりました。

どんなことが起こっても戦争は二度としてはいけないと思います。。。

続く

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